村上春樹と日本人の精神の古層ー雑誌「WIRED」でのインタビューに対してー
雑誌『WIRED』日本版でのインタビュー
『WIRED』日本版vol.33に「村上春樹、井戸の底の世界を語る」というデボラ・トゥリースマンによるインタビューが掲載されています。(この記事はネットでも公開されています)
井戸の底
井戸の底というのは村上春樹の最新作「騎士団長殺し」(2017年2月初版発行)に由来しています。
村上春樹氏はその執筆について、「執筆中は、現実と非現実が自然に渾然一体となっていく」と述べています。
村上春樹氏は
「非現実的な世界と現実的な世界との境目がはっきりしているようには、僕自身は思えない。だから、いろいろな状況でふたつの世界は渾然となるのです。異界というものは、現実の世界の間近にあると日本では捉えられているのではないでしょうか。向こう側に行こうと決めたら、行動に移すのはさほど難しいことではない。西洋の世界では、異界に達するのは容易ではない。幾つかの試練をくぐりぬけ、やっと向こう側に到達できると思われがちです。でも日本では、もしあちら側に行きたいなら、行けるものなのです。だから僕の作品でも、井戸の底へ達したら、そこは違う世界となるわけです。だとすれば、こちら側とあちら側を、区別する必要もありません。」
と語っています。
前古代の日本人の死生観
村上春樹氏がインタビューで語っているのと同じようなことが、最近読んでいる本の中に出てきました。
その本は、NHK出版の「役に立つ古典」安田登著 です。
この本の中の「古事記」について書かれているところにそれは出てきます。
「古事記」の記述の中に私達が忘れてしまっている、はるか昔の日本人の心のありようを見ることができると言っています。
黄泉について
私達は「黄泉」の国、すなわち冥界は地下にあるとなんとなく感じています。ところが、古事記にはその境目は「黄泉比良坂」(よもつひらさか)と表されています。黄泉の世界と現世との平らな境目という意味です。
前古代の日本人にとっては黄泉の国は地続きの存在として認識されていたのです。
「死ぬ」ということ
同じく古事記の中に大国主命(おおくにぬしのみこと)の話があります。大国主命は兄たちによって、何度も死に追いやられ、何度も生き返ります。
古代人にとって、「死ぬ」とは「萎ぬ(しぬ)」という意味で捉えられているようです。「萎ぬ」とは植物が枯れてしなしなになるような状態を言います。
日本語の「しぬ」は一時的な死であって、何かきっかけがあれば生命活動が再び活発になることがある状態のことだったのです。
村上春樹と前古代の日本人の死生観
村上春樹はインタビューで、異界と現実的な世界は境目のないようなものと感じていると語っています。
それに対応するように、前古代の日本人にとって、冥界は地続きのようなものであり、人は死んでも何かきっかけがあれば生命活動が活発になると考えていたのです。
これらのことが、驚くほど一致しているのには、その死生観が普遍的なものであるからなのかもしれません。
西洋的な価値感とは違うところに、新しいものがあり、真実が存在しているのかもしれません。
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