村上春樹 特別寄稿 「猫を棄てるー父親について語るときに 僕の語ること」の感想・レビュー 名もなき一滴の雨水
このエッセイは文藝春秋2019年6月号に掲載されました。
村上春樹が自分の父親や、ルーツについて綴った(つづった)初めてのエッセイになります。
本文の内容について触れていますので、ネタバレに注意してください。
猫を棄てる
冒頭に、題名になっている猫を棄てる場面が描かれています。
「父親と、家で飼っていたもう大きくなった雌猫を、2キロくらい離れた防風林に棄てた。ところが、自転車で帰ってくると、その猫が玄関で出迎えていた。」という内容のものです。
この話は父親との「ひとつの素晴らしい、そして謎めいた共有体験」として語られています。
この話は事実なのでしょうが、棄てるという行為とその猫が帰ってきていたということが、このエッセイの内容の暗喩として語られていると思います。
村上家のルーツ
話は村上家のルーツになります。おじいさんがお寺の住職で、その子供である父親の兄弟達も、お寺と関係があったようです。
父親と戦争と村上春樹
父親は先の戦争に従軍していたそうです。その足跡を作者は細かく追跡しています。
その中で、父親が中国兵の処刑に関わったことを語ったことがある、と述べています。その回想について、息子の自分がそれを疑似体験して、部分的に継承したと語って、それが人の心の繋がりというもので、「その本質は<引き継ぎ>という行為、あるいは儀式の中にある」と述べています。
村上作品に登場する濃い戦争の影はここに原点があることが分かります。(「騎士団長殺し」においてそれは顕著に表れています)
ひとりの平凡な人間
村上春樹はエッセイの最後にこう語っています。
「言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。」と。
”交換可能な一滴”とは、交換可能な「商品」として扱われている現代のグローバル社会における”人間”のことを指していると思われます。
死について
また、「一滴の雨水」としての我々個人が、「個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。」”それだからこそ”と語っています。
集合的な何かに置き換えられるとは、死のことを暗示していると思います。死とは、個体としての輪郭を失い、大きな何かに変わってしまうことである、と語っているのだと思います。
その死へ、垂直的に降りていくことの難しさに思いを巡らせて、このエッセイは終わります。
村上春樹の作品の背景について考えるときに、このエッセイは多くのヒントを含んでいるものと思います。
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